「世界を手に入れても、魂をきずつければ、何の得だろう」(『マタイ福音書』16章26節)
最近ずっと考えていることがあります。
経済や金融を学んでいると、世界は経済や金融という枠組みの中で完結していると思いがちです。もちろん、学問としての経済や金融は枠組みそのものなので完結していても良いのですが、学ぶ側の人間がその人の日常生活においてもその枠組みですべてのものが説明できると考えてしまうのは問題だと思います。
高校生のときに読んだ養老孟司の本に、「お金で買えないものはないと思っている人は、お金で買えるものが世の中のすべてだと思っている人だ」と書いてありました(書名は忘れてしまいましたが)。
私は個人的に、何かが世の中のすべてだと考えるのは避けたほうがいいと思っています。人間は「世の中とは何か」という問いに対して正しい答えを出せるほど全能ではないと感じるからです。
さて、冒頭に書いた言葉は今読んでいる「エンデのメモ箱」(ミヒャエル・エンデ、岩波書店、105ページ)で紹介されていたものです。
「世界を手に入れる」という表現を経済的観点から考えてみます(他にも宗教や政治を通じて世界を手に入れる、という考え方もあると思います)。
1987年の「ウォール・ストリート」という映画に「(金融を通じて)世界を二分することにしたんだ」というセリフが出てきますが、お金、モノ、人(労働力)のやりとりはいまや疑いなく世界規模になってきているので、それを支配することで「世界を手に入れる」という発想が生まれてもおかしくないと思います。
でも、世界とは経済理論、言い換えればお金の流れやモノの流通、賃金率だけで説明できるものでしょうか?
今私にとって重要なのはこの問いです。
いろんな人と話していると、政治にしろ経済にしろ、現存のシステムは所与のものとして議論されないことがとても多いです。
しかし、自分が何の枠組み(=どんな前提)を元に意見を持っているのかを考えずにいると、それは他者に対する無理解につながると思います。人を傷つけてしまうかもしれない。(出典が福音書なので宗教的な表現になりますが)、それで自分の「魂がきずついて」しまうかもしれない。
何かの思想系統に没頭するのは別に良いし、枠組みを1つずつ学んでいくことはもちろん重要です。
大切なのは自分がどの枠組みに基づいて言葉を発しようとしているのか、行動しようとしているのかに意識的であることだと思っています。
今日はこんなところで悶々としていますが、また何か考え付いたら書いてみようと思います。
ちなみに、The Beatlesも同じようなテーマについて"Within you without you"の中で歌っています(以下勝手に和訳)。
We were talking
About the love that's gone so cold
(私たちが話しているのはすっかり冷たくなってしまった愛のこと)
And the people who gain the world
And lose their soul
(そして世界を手に入れ、魂を失ってしまった人々のこと)
They don't know, they can't see
Are you one of them?
(彼らは知らない、彼らには見えない。あなたも彼らのうちの1人なのか。)